雄しべと雌しべの間に「ロステルム」と呼ばれる小さな膜がある。この膜が邪魔をして、花粉がすぐ隣の雌しべに届かないのだ。原産地のメキシコでは、Eulaema属のランミツバチだけがこの膜をめくって受粉できる。それでも成功率はわずか1%。100本咲いて、実になるのは1本という計算になる。
1837年、ベルギーの植物学者シャルル・モレン氏が人工的に受粉させる方法を発見した。ところが手順が複雑で、農園で使えるような代物ではなかった。
転機は4年後に来る。1841年、フランス領レユニオン島で、当時約12歳の奴隷の少年エドモン・アルビウス氏が、細い棒と親指だけで受粉させる方法を編み出した。主人が別の植物で受精の作業をするのを観察し、自分でバニラに試みた結果だったという。この手法はたちまち島中に広まり、やがてマダガスカルをはじめ世界中の農園に伝わった。今日でもバニラの受粉は、この方法で1本ずつ手作業で行われている。
アルビウス氏本人は、1848年の奴隷解放後も発明の対価を受け取ることはなかった。1880年、貧困のうちに没している。
アイスクリームやクッキーに使われるバニラの香りは、180年前に少年が編み出した指先の技術で、今も1本ずつ作られている。